津太夫を知っているか?

雑記帳

昨年末から興味を持ち始めた日本人初、世界一周を達成した若宮丸の乗組員たち。
そのうちのひとりが、塩竃市出身の津太夫という男性。
ぐるり、と地球を一周して無事に帰国できたのは、16人中わずか4人。
 
諸事情を知らない現代人が聞けば「昔は命がけの大変な旅だったんだな」なんて安直な感想で終わってしまうかもしれない。
だが、そうじゃない。

そもそも若宮丸は世界一周を目指して海原を進む船ではない。
藩から依頼された公の荷物を載せて江戸まで運ぶ貨物船だった。
当然、その時も米や木材などを積んで江戸を目指したのだが、冬の海で時化に遭遇。
嵐で舵が大破、転覆を回避するために帆を張るマストも破壊、ただの大きな木の箱となって広い海を彷徨うことになった。

米を食べ、魚を釣って生き永らえた乗組員たちは約半年後、ロシア(いまのアラスカあたり)に漂着。
現地の先住民に救助された後、帝国の役人の保護を受け、イルクーツクで生活することになる。
 
今の世の中だったら…いまはロシアもウクライナと戦争しているから日本とも関係が微妙かもしれないけど、人道的な見地からいえば、すぐにも日本へ送還されるだろう。
ところが当時の江戸幕府は鎖国政策真っただ中。
中国とオランダ以外は国交がない状態。

ロシア帝国内でも政情が不安定だったこともあり、彼らはロシア国内に留まるしかなかったのだが、それが10年近く続いだのだから、いくら何でもひどすぎる。
 
最初は「今に帰れるさ」と明るい未来を信じていた乗組員たちだったが、だんだんメンタルがやられていく。
ロシア帝国政府は彼らに対して生活費を支給していたが、決して裕福ではなかった。

どうしたものか、と悩む彼らに手を差し伸べたのが、彼らよりも前にロシアに漂着した日本人。
彼はロシア帝国に帰化して、日本語学校の教師として働いていた。
そこで教職員になれば、破格の待遇で雇用される、という。
しかし、そこには条件があり、ロシア正教会の洗礼を受ける…つまりキリスト教徒になる、ということ。
当時の日本は、ご存知の通りキリスト教禁止、キリシタンは厳しく処罰される。
若宮丸の乗組員も当然それを知っている。

普通の感覚なら「いや、いいです」と断るわけだけど、いつまでたっても帰国できる見通しが立たない。
暮らしもどんどんすさんでいく。
漂着民の先輩は、ロシア人になって、良い暮らしをしている。
先輩日本人も自分一人だけがそういう存在なのは寂しいものだから、執拗に彼らを誘う者もいた。

話に乗ったのは、20代の若者たち。
洗礼を受けたうえ、ロシア風の氏名を与えられ、以後はそれが彼らの正式な名となる。

一方の40代50代の乗組員たちは、洗礼を頑なに拒み、苦しい生活が続いた。
「いつかは日本に帰れる」「帰るならキリシタンになってはいかん」
歯を食いしばって耐えていたのだろう。

自分が当時の津太夫と同じ50代(出港した時は49歳)だから、やせ我慢にシンパシーを感じてしまうのだが、帰化拒絶派も黙って手をこまねいていたわけじゃない。
地元の人にパンの作り方を教わってパンを売ったり、地元の漁師の手伝いをしてみたり、木材加工が得意な者は小物を造るなど、それぞれが仕事を見つけて、生活を向上させている。
 
やや冷静になって状況を俯瞰すれば、若者たち一派は環境の変化に順応して新しい生き方を見つけ、一方中高年たちは対応できなかった、という見方も出来る。
ライフハック的な考え方で言ったら、そちらの方が正解かもしれない。
とはいえ、どちらが正解というのは一生を終える瞬間まで分からない。
 
彼らがロシアで暮らし始めて約8年後、ロシア皇帝から当時の首都、サンクトペテルブルクで謁見を命じられ、彼らは住んでいたイルクーツクを出て西へ西へと向かう。
ところが、当時の馬車の乗り心地は非常に悪かったらしく、乗組員のうち3名が途中でギブアップ。

さらには、ロシア皇帝と謁見して「日本へ帰りたい人、手を挙げて!」と言われて「帰ります」と言ったのは4名だけだった。
ここでも若者たちが「やっぱりロシアに留まります」と、当初の希望を翻したのだ。
この時、ロシア皇帝は帰国希望者たちに対して満面の笑みで「全力で支援するから心配しないで帰国してくれよ!」と肩さえ叩いたらしいが、残留希望者に対しては見向きもしなかったという。

「ロシア皇帝万歳、がんばって働いて納税します!」とまで言ったかどうかは知らんけど、帰化人たちが冷遇されたのは何故か?

ロシア帝国政府は、彼らを大事に扱って帰国させれば日本との国交なり通商条約がスムーズに進行すると考えていたのかもしれない。
とすれば、ロシアに留まるより、帰ってもらった方が好都合だ。
あるいは、帰国を希望しておきながら、土壇場で翻した者たちに対して節操がない、と何かしら悪い印象を抱いたのか…残留希望者たちの「やっちまった感」は相当強かったと思われる。
 
そして、ロシア皇帝が住まうサンクトペテルブルクから陸路でウラジオストクとか樺太あたりまで戻って日本へ帰るかと思いきや、サンクトペテルブルクからちょっと沖合にあるクロンシュタット港からヨーロッパから大西洋を横断、南アメリカ大陸の南端を抜けて日本を目指すという…!

当時のロシアには「ロシア帝国初の世界一周達成」という目論見があり、彼ら4人はそれに「便乗」する形で日本を目指すことになったのだ。
世界一周達成が最優先だったせいなのか、南アメリカから太平洋を横断して、そのまま日本の長崎へ向かうのではなく、日本をスルーしてカムチャツカへ立ち寄っている。

そこから長崎へ到着したのは1804年だから、若宮丸が遭難して11年後ですよ。
で、やっとの思いで日本に着いたのに、鎖国真っ最中の日本は、なかなか彼らを上陸させない。
ロシアには世界一周達成だけではなく、日本との国交樹立という目的もあったから「皇帝の親書を中央政府(つまりは将軍)に届けてほしい」「いや、ちょっと待って」のやり取りが延々と続いた。

その犠牲になったのは4人の帰国者たち。
大歓迎を受けるとは思っていなかったが(鎖国だし、キリシタン疑惑を持たれるだろうと踏んでいた)、ここまで酷い扱いを受けるとは思ってもいなかったのだ。
その後、どうにか上陸したが、事実上の軟禁・幽閉状態が続いていた。
11年前、ロシアに漂着した彼らが、ロシア国内で生活費を支給されながら、ほぼ自由に行動できたことを考えると鎖国時代の日本政府の狭量さは思考停止の典型だ。
モラトリアム状態が続いたせいで、4名の精神状態と健康状態も日に日に悪化、とうとう最後には1名が自殺をはかってしまう。

自殺をはかったのは、いつでも前向きで、世界一周の船旅でも寄港先の国や街にキラキラと目を輝かせて、オッサンたちが「疲れるし船に残るわ」と言っても船員たちと一緒に上陸していたピュアな若者だった。
歴史にifは禁物だが、彼が心を病まなければ、詮議だけじゃなく学術的な聞き取り調査でも、もっとたくさんの情報が手に入ったはずである。
 
それを聞いたかどうかは分からないけど、最後の最後には、あの遠山の金さん…のお父さん、初代遠山金四郎が江戸から長崎にやってきて状況の打開をはかる。
ロシアの外交策が不発に終わったこともあり、やっと4人は長崎を後にする。
 
が、今度は江戸に留め置かれることになる。
教科書にも掲載され、子供が読む偉人伝にも登場する杉田玄白、そう、あの解体新書を出版した学者だ。
その一番弟子にして、解体新書の改訂版を任されるほどのスゴイ学者、大槻玄沢が幕府の命を受けて4名のインタビューを行った。
大槻玄沢が選ばれたのは蘭学者としてのリテラシーを期待されていたのもあったが、若宮丸の乗組員たちよりも少し前にロシアに漂着、無事に帰国した大黒屋光太夫たちのロシア見聞録を書いた実績があるからだろう。

大黒屋光太夫は若宮丸と同じような海運業の関係者だったが、こちらは経営者でもあり、学歴もある。
一方の若宮丸の乗組員たちは、学歴もない、いわゆるブルーカラー労働者。
おまけに、彼ら4名はインタビューで口を滑らせたら、またも奉行所に逆戻り、厳しい詮議を受けるのではないかという恐怖心から、大槻玄沢が知りたい核心部になると「知りません」「覚えてません」というように、のらりくらりとかわしていた。
 
これが大槻玄沢の逆鱗に触れることになり
「あいつらは、学歴も知性もない連中だから、なにひとつまともに答えられない」
「世界一周達成っていったって、ロシア船に便乗しただけじゃん」
「やっぱり大黒屋光太夫くらい頭脳明晰じゃないと聞く価値がないね」
と、さんざんディスって、それを正直に誌面にも書いたものだから、購読者たちも「大槻玄沢先生が言うんだから、そうなんだろうね」と低評価。

さらには幕府も伊達藩も「帰ってから何してもいいけど、あっちこっちで世界一周達成自慢するなよ。余計なことを言ったら、しょっぴくからな」と秘密警察顔負けの箝口令。
いまでいうユーチューバーになって大儲け出来たんだろうけど、それすらもかなわず。
江戸幕府なり伊達藩なり「大変だったね、ご苦労さんだったね」と何石か与えろよ、と怒りを覚えるが、いまだってオリンピック金メダルもらっても一生食えない日本だものね。
当時からそんな感じで都合の悪いモノには「臭い物に蓋をする」で済ませてきたんでしょう。

後日談だけど、長崎での外交が不発に終わったというか、江戸幕府の長々として進展のない態度に業を煮やしたレザノフ(ロシア皇帝の命を受けた役人)は、武力による開国を選択、樺太を襲撃するに至る。
当時の日本が外交政策において、ちっともイケてなかったのが分かるエピソードである。

帰国してから1年も過ぎて、やっと故郷の仙台藩に戻った4名。
ようやく彼らは故郷で幸せに余生を送りましたとさ…とはならなかった。

自殺未遂からどうにか一命をとりとめた若い乗組員は、ほとんど廃人のようになり、翌年には他界してしまう。
もう一人の乗組員は、帰宅したら、奥さんが再婚して子供まで産まれていた。
ロシアで心折れそうになった時、彼の支えになっていたのは奥さんと子供だったのに。
奥さんにしてみれば、お婿さんがいなくなり、家計をささえるためには新しい婿養子を迎えるしかなかったんでしょうけど。

こうなってみると、帰国したのは果たして正解だったのか?ということになる。
精神的大打撃のせいなのだろう、彼も仲間を追うようにして同じ年に亡くなってしまう。
 
結局、天寿をまっとうした、というほど長く生きたのは、塩竃市の津太夫、20歳ほど年の離れた儀兵衛の二人だけだった。
決してハッピーエンドとは言えなかった彼らの人生だけど、なぜ津太夫が代表として扱われてきたのか。
 
帰国してから長生きしたせいではないと思う。
それを言うなら、もうひとりの生き残りにもスポットを当ててもいいはずだ。

漂流してから帰国までの間「究極の選択」がいくつも彼らに襲い掛かったことは想像に難くないが「絶対に間違えちゃいけない選択」で大きな役割を担ったのが津太夫だったのだと思う。
特にロシア人との人間関係において、津太夫のアドバイスが功を奏したことは一度や二度ではない。
短気を起こしかけた若い連中を落ち着かせ、日本人に対して苛立つロシア人にも割って入る。
口がうまいとか、頭の回転が早いというのではなく、おそらくソフトな人当たりで人間関係をうまく調整したのだろう。
その証拠に、ロシア人にとっても初の世界一周を実現した当時の船長も、津太夫への評価が高く
「ぶっちゃけあの日本人の中で皇帝陛下と謁見するにふさわしい人格者は津太夫だけで、あとの連中はダメね」といった具合で明記されていたという。
 
そして、津太夫たちをインタビュー記事で散々貶めた大槻玄沢の罪は大きい。
多分、目の前に居たら塩釜市民を代表して全身全霊で論破してやるし、無礼者!と刀を抜いたら真空飛び膝蹴りの餌食にしてやる。

彼らの半生を「津太夫たちの長い夢」という長編小説として完成させた泉川渉氏によれば、大槻玄沢も100%ディスっていたわけではなく、褒めるところは褒めていたという。
大槻玄沢の出身地、一関では身内を堂々と褒めるのではなく、あえてネガティブな評価をする風習があり、東北出身の彼らを身内として認めたからこそ、厳しい言い回しになったのでは、と推測する。
そうはいってもですよ、オーソリティーが公式にディスったせいで、後々「彼らには知性がなかった」と断言している作家もいるわけですよ。
もし、大槻玄沢が「こいつらマジすげえよ!私は一関だけど、ハッキリいって東北出身だから身内みたいなもんじゃん?身内でこんなグレイトなヤツらいるなんて伊達藩も江戸幕府も最高!日本の宝!」とアゲまくったら、椎名誠だって高島屋光太夫じゃなくて、塩竃の津太夫をモチーフにしてくれたんじゃないの?

「まあ、熱くなりなさんな、そういう見方もある、てことですよ」
という意見もあるかもしれないけど、実際、津太夫たちに知性が無かったというのは大きな間違いだ。
たとえばロシア語習得について。
20代の若者たちだからこそ、スポンジのようにロシア語を吸収できた、というのはその通りかもしれない。
しかし、50歳を過ぎた津太夫がロシア語を使いこなせるようになったのは、どうなのか?
現代社会で50歳から新しい語学を勉強して、しかも10年後にはペラペラになっている。
もちろん周囲がロシア人だけという環境が、ロシア語習得を加速させたかもしれない。
 
だが、若宮丸の乗組員としての立場を考えたら津太夫は彼らの上司に当たる。
「お前ら若いヤツらが言葉を覚えて、オレの通訳として働け」
と命令できる立場だったわけですよ。
もっと分かりやすく言えば、スマホやタブレット、PCを仕事で使わなければならないのに
「分からん」と覚える気もなく放り投げて、若い連中にやらせるなんてよく聞く話でしょう。
津太夫は、それをしなかったばかりか、自己完結できるところまでスキルを高めたわけです。

これは津太夫と同じ時代に生まれ、同じように50代で新しいことを成し遂げた、これまた歴史上の偉人と同じくらい評価されるべきだと思う。
誰のこと言ってるのって?

日本の地図を正確な測量でつくりあげた伊能忠敬でしょう!
50過ぎで新しい環境に身を置いて、新しいことを成し遂げたんだから。
 
次に暦の計算。
石巻を出航して漂流、ロシアに流れ着いてから帰国するまでに11年以上かかったが、彼らの認識と実際の時間はたった1日しか違わなかった。
「そんなのロシアでカレンダーみたらすぐに分かるじゃん」
と簡単に言うなかれ。
当時の日本は太陰暦、ロシアは太陽暦。
太陽暦のカレンダーを見たとしても、太陰暦との差までは分からなかった。
石巻を出港してから、漂流中もちゃんと記録を取っていたのだろう。
他にもロシア滞在中、商売を軌道に乗せて一定の成功をおさめるなど、知性と根気なくして実現できるだろうか。
 
確かに自発的に世界一周を達成したわけではないが、それを言ったら先人の高島屋光太夫も境遇自体は同じだし、日本史では有名なジョン万次郎だって漂流者だ。
何かを成し遂げよう、という起点も大事だけど、置かれた環境や境遇で出来る限りやってみる、ということはもっと大事だろう。
 
長々と書いてしまったけど、何が言いたいかというと、歴史的快挙を成し遂げた偉人なのに最後はひっそりと隠れるように暮らした津太夫たちに、もう少し日の光を当ててほしい、と。
そういうお話です。

そして人生の先が見えてきたと思っている中高年のご同輩諸君。
40代だろうが50代だろうが、ナンボでも新しいスタートラインに立てる。
200年前の人間に出来たんだから、現代人の我々に出来ないはずがない!

でしょ?