New South Wales

■ 1997年5月15日 Ride to Live Live to Ride!!

「ホンマに気ぃつけてな…」
この半年間、シドニーのフラット(シェアハウス)で寝食を共にしたジュンが呟くように言った。

ようやく住み慣れたこの街…シドニーを離れて旅に出る。
友達やお世話になった人たちとも、しばしのお別れ。
ちょっと寂しい気もするが、オーストラリアに来たのは、英語を勉強するためでも現地の人間に混じって働くことでもない。

バイクで豪州一周。
それだけだ。
でも、あなたは、きっとこう思うはずだ。
「何でわざわざ旧いバイクで…しかもKawasakiのZ1Rなのか?」と。

インターネット上に公開されている、様々なライダーの旅行記を読んでもらえればお分かりの通り、オーストラリア一周のツーリングはオフロード・バイクを使うのが定説だ。
地平線まで続く荒野、海原のような広大な砂漠を走るのが、オーストラリア・ツーリングの醍醐味であり、舗装道路だけを走る旅は「もったいない」からだ。

それに、オフ車は車体も軽い。整備やトラブルの際、部品を交換するにしても、流通量が多いから部品も入手しやすい。心臓部のエンジンも単気筒が主流なので、万が一の時にも少ない部品で修理できる可能性が高い。
そこまでオフ車のアドバンテージを分かっていながら、何故Z1Rなのか。
20年近く前の古くて重い4気筒のバイクで何万キロも旅するのは、かなりリスキーだ。

Z1Rを選んだ理由を説明する前に、何故オレがオーストラリアへ渡ったのか。
まずは、そこから説明する必要があるだろう…

冒頭でも書いたように、大学を卒業しても、オレは何をするでも、何かに向かって進むでもない「何も無い人間」だったのだ。
なまじ、祖父の代から田舎町に住んでいるものだから、困った時でも、たいていは親戚縁者の繋がりで、何とか切り抜けることが出来た。
いまになって思えば、非常にありがたい恵まれた境遇だったのだが、その価値に感謝することも無く、うっとおしいとさえ感じていた。
そして「オレは自分の力で生きているのではなく、誰かがいないと生きられないダメ人間だ」と思い悩むようになっていた。

みなさんのように、日々当り前に生きていれば、こういう感覚は10代半ばで味わい、大人になれば「世の中、そんなに甘いものじゃない、縁故だろうが何だろうが縁は縁」と割り切ることもできる。
だが、学業にも部活動にも身を入れたことはなく、寝ても覚めても雀卓を囲んでいるか、小説を読みふけっては空想の世界に惚けるような生活だから、成功も挫折も知らないわけで、大学を卒業して、子供じみた感覚で踏み入れた大人の社会に、すっかり圧倒されてしまったのだ。

腑抜けた自分自身をずいぶん高い棚の上に置いたうえで「オレのやりたいことじゃない」と吐き捨てるようにして仕事を辞めると、今まで見つけることが出来なかった「何か」を探すことに時間を費やし始めた。

すでに社会人として生きる友人たちは、誰もが「社会の荒波」を生きるのに必死で、「何かを探す」というフリをして現実から目をそむけたオレの相手をするヒマがあるはずもなく、オレは胃袋がひっくり返りそうな孤独感を覚えていた。

そんな日々に頭を抱えていたら、大学時代の友人が「海外で働きながら1年間暮らせる制度」、つまりワーキング・ホリデーについて教えてくれた。
彼自身、オートバイに乗ってオーストラリアを旅したいのだという。
その話に興味を持ったのが、当時、一緒に音楽をやっていた友人だった。
彼とは小学生からの付き合いで、20歳そこそこで就職、毎日遅くまで、時には夜勤が続くような猛烈な会社で働いていたのだが、その当時、仕事が嫌で嫌で仕方なかったらしく、彼もまた独自でワーキング・ホリデーの情報を入手していた。

実を言うと、この時点でそこまで海外に興味を持っていたわけではなかった。
留学を勧められたことはあったが、英語はからっきしで、高校三年間も赤点を連発、大学の英語も「必ずここが出ます」という翻訳をお経のように毎日繰り返し、ようやく単位を得たほどのレベルである。
とてもじゃないが、よその国で暮らすなど、想像も出来なかった。

ただ、見知らぬ国の風景に憧れがなかったわけではない。
昔から、旅は好きだったし、風に吹かれながら、遠い異国の街を歩くのがつまらないはずがない。
行くかどうかは別として、一体どのようなものかと調べてみた。

自分が知らなかっただけで、仙台にもビザ取得の仲介業者がいくつかあって、それらは現地の英語学校と提携、ホームステイなどとセットにしてビザの手続き、航空券の手配、現地での生活をサポートしてくれる。
ところが、聞けば何十万円もお金がかかるという。ネットで何でも調べられる今と違って1990年代当時は、情報にはカネが必要だった。

もちろん、そんな資金は乏しかったし、仲介業者が「学校は行った方がいいですよ」「現地では何かと不便ですよ」と恐怖心を煽ることばかり並べるのが気に入らなかったので、彼らに力を借りるという選択肢はなかった。

この頃、オレは近くの英会話教室に通い始めていた。
いまでは、そこも仙台市内にいくつもの教室や保育園をもつ有名な英会話教室だが、当時は小さな商店街の潰れた本屋を間借り、おそらく講師も短期滞在ビザの欧米人か、留学生のアルバイトだったと思う。

その代わり、1クラスに数人、生徒が教えて欲しいこと、知りたい言い回しをすぐに教えてくれるので、英語の基礎も分からないオレにとっては、かえって良かったのかもしれない。

同じクラスに居たのは、オレ以外全員女性。
ひとりは、ニュージーランドに長期留学したり、他の国にも滞在したことのある、バリバリの海外経験者。英語を習うというより、ネイティブとの会話によって、自身の語学力を維持、ブラッシュアップのために来ているようだった。

もうひとりは、表通りをダンプが通ると、かき消えるような小さな声の女子大生くらいの女性。発音も日本人然としており、きっとオレと同じくらいの英会話レベルに違いない。

おいおい、ねえちゃん、そんなんで大丈夫かい?
オレが少しモノを教えてやろうじゃないの。

と、息巻いてたら、こっちの女性もオーストラリアに1年近く留学してたっていうじゃないの。おまけに、年上のお姉さま、ときたもんだ。
海外はおろか飛行機に乗ったこともないのは、オレだけだった…(笑)。

そんなオレに彼女たちは、いかに海外で生活するのが素晴らしいか、と自らの体験談をもって教えてくれた。
特にオーストラリアに行った彼女は、後にオレが豪州生活をスタートさせることになる、ボンダイ・ビーチに住んでいた。

地図やら写真を引っ張り出してきては、ここのピザが美味いだの、ここには素晴らしいビーチがあるだの、懐かしそうに話す彼女の巧みなプレゼン(?)に、すっかりハートを射抜かれたオレは「じゃあ、オーストラリアに行くわ」という、ホントに軽いノリで行き先を決めたのである。
なんて書くと、これまでの読者から「そんな軽い理由でか!」と」怒られそうだけど(笑)。

実は、当初の候補地はカナダだったのだ。
イトコ夫妻が住んでいて、ワーキング・ホリデーの話が持ち上がる前から「勉強になるから、こっちにおいで」と声をかけてくれていたのだ。
ありがたい話ではあったが、知り合いの世話になったら、今までと何も変化がないだろうし、それに冬が長い国では、バイクに乗れなくなってしまう。
ウィンタースポーツでもやればいいんだろうけど、カナダが選択肢から外れるのに悩むことはなかった。

じゃあ、ニュージーランドは?
ここも今思えば素晴らしい国ではあるのだが、面積が日本とそんなに差はないでしょ?山も多いし、雪も降るから、ちょっと違うかな、と。
そうなると、必然的にオーストラリアを選ぶことになる。

そこからは、割と動きが早かった。
都内で働くイトコに頼みこんで、オーストラリア大使館でビザの申請用紙を入手してもらい、英会話教室に出入りしていたヒマそうなイギリス学生(多分)に「近くのモスバーガーで晩飯おごるから、これを書いてくれ」と申請用紙に代筆してもらうことにした。

何十万もかかる手数料が、1000円足らずで済んだのだから、なかなかのものでしょ?職歴なんかも、嘘はつかなかったけど、結構デコレーションしたおかげで、それはそれは素晴らしい経歴の日本人が出来あがった。

それからの数カ月、昼も夜も働いて、金を貯めていった。
順調にいけば、夏の終わり頃には日本を発てる…と出発時期が見えてきた時、とんでもないことが起きてしまう。

両親が不在時、オレは気を利かして実家の車を車検に出した。
血は繋がっていないが、遠い親せきの整備工場で、代車で出てきたのが、バリバリにチューン・アップした車だった。
なかなか面白い乗り心地だったので、オレは先に書いた旧友を引っ張り出し、海っぺリのワインディングを走っていた。
ところどころ、運転を交代しながら走っていて、友人がステアリングを握っていた時だった。

長い坂道を降りていた時、友人がコントロールを失い、車はテールスライドを始めた。
そのまま、勢いよく土手に突っ込んだ車は、縁石に跳ね返り、車はアコーディオンの蛇腹のようにひしゃげてしまった。

乗っているオレたちも、たまったものじゃない。
ハンドルに顔面を強打した友人は血まみれになり「ヤバい、腹が痛い…内臓をやられたかもしれない」と呻いていた。
ボンネットからは白煙があがりはじめている。
車が炎上するのではないか、という恐怖に掻き立てられたオレは「今、そっちにいくから」と、立ち上がろうとした。

が、左腕に力が入らないばかりか、左脚、身体の左側には何の感覚すらなかった。

太い神経がやられたのかもしれない。
普通ならパニックになるところだが、いつ燃え出すか分からない車から出られない恐怖の方が勝っていた。
どうにかシートベルトを外したが、身体を起こすことすら出来ない。
「ゴメン、オレもダメだわ…」とシートに沈んだ。
クモの巣のように割れたフロントガラスの向こうには、時折、車が通って行くのが見えた。
誰もがスピードを落として気の毒そうな顔を顔をこちらに向けているが、停まってくれるドライバーはいなかった。

「なんだかなー。こういう時って誰も助けてくんねーのな」
「みんな面倒くさいことには関わり合いたくないんだろうな。でも、早く出ないとやべえよなあ」

オレたちは、とりあえず動く方の腕を振って助けを求めた。
どれくらい経った頃か、一人の男性がやってきてドアをこじ開けてくれた。
後に聞いた話では、非番の消防隊員だったらしい。

それにしても、車から出される時の痛さといったら、涙、鼻水、よだれ、大小便を漏らしそうになるほどだった。
裏を返せば麻痺は一時的なものだったのだろう。
救急車に乗せられて安心したからか、イガグリのような刺々しい痛みが身体中の神経を駆け巡り、二人は悶絶していた。

人間の身体は良く出来ているもので、キャパシティ以上の痛みに襲われると、気を失うらしい。
しかし、オレたちは「ここで眠ったら死ぬぞ!」と冬山遭難者のように声を掛け合い、どうにか正気を保っていた。

結果的に、オレは首の周囲の筋肉がすっかり伸び切ったために首を固定、胸骨と肋骨が脱臼のような状態になっていた。
一方の友人は、シートベルトで鎖骨を折り、腰椎のひとつが真っ二つに割れて、しかも完全に潰れるという重傷。

借り物の車をペチャンコにしたせいで、以来、その親戚筋とは関係がギクシャクしてしまい、友人は結果的に海外渡航を断念することになってしまった。
事故の処理やら傷が癒えるまで、数カ月を要し、友人がある程度回復したのを見計らってから、再び、渡航へ向けて動き始めた。

90年代半ば、当り前だが、現代のようなインターネット環境もWEBサイトもなかったので、必要な情報はアシやコネを使って探しだすしかなかった。
まず、一番最初にやったのが、英語学校の入学とホームステイ先を探すことだった。
行き当たりばったりの方が、冒険心をくすぐられるのだが、理由があった。

語学学校には、長期に渡って勉強する留学生もいるだろう。
彼らから現地の生きた情報をもらった方が、噂話で動くよりも、時間と金を無駄にすることがないと踏んだのだ。
ホームステイも同様で、渡航初期、現地のごくごく普通の一般家庭とベッタリ接するチャンスはそうないだろう。
ネイティブから得られる情報も貴重なはずだ。
というわけで、パンフレットをかき集め、多分、一番安くて便利そうな学校を選んだ。

次に行ったのがHIS。
当時は、いまほど有名ではなく、仙台市内でもあまり便の良くない古ぼけた雑居ビルの一角にあったと記憶している。
飛行機なんて、乗ってしまえばどれも一緒だと思っていたから
「とにかく一番安いヤツ。自由席でいいです」と大真面目に言ったら、カウンターのお姉さんが「面白いこと言いますね」と微笑み返し。
この時、初めて飛行機は全席指定だと察したのだから、本当に何も知らなかったのだ。

 会話の流れで、お姉さんはオレが海外旅行にも行ったことのないド素人であると分かってくれたのか、かなり丁寧に説明してくれた。
「タケダさんの場合、片道で行った方がいいですよ」
「あ、でも、オレがもってるのはワーキングホリデー・ビザだから、1年以内に帰って来なくちゃいけないんですよ(正確には、オーストラリアを出国。別に帰国するかどうかは関係ない)。往復チケットの方が安上がりじゃないすか?それに、オレはバイクでオーストラリアを回ったらすぐに帰国するし、つまんなかったら、それはそれですぐに帰ってきますよ?」
「確かにそうなんですけどね…うまく言えないけど、タケダさんは1年じゃ帰ってこない気がするんですよね」
「何ですか…それ…」

そんなやり取りの後、購入したのは、韓国経由の片道切符だった。
海外旅行保険も加入したのだが、最長1年なので「本当に1年過ぎそうだったら、必ずかけ直して下さいね」と念を押された。
今はエクスペディアのように、ネットで安いチケットが選び放題、海外旅行保険もネットでOK。
役所の納付書みたいな航空チケットもEチケットに変わったし、フライト数日前に「本当に乗りますからね」と、ダブルブッキングを防ぐリコンファームという儀式も今は聞いたことがない。

話は脱線してしまったが、ようやく最初の質問に戻る。
「なぜ、Z1Rなのか?」
こいつにはちゃんとした理由がある。

そもそもカワサキが最初のZ…Z900、Z1(ゼットワン)を世に送り出したのが1972年。
オレが母親の腹ん中からロールアウトしたのも、この年の1月。
そんなわけで親近感もあったのだが…だったら他のマシンでもいい。

ご存知の通り、カワサキが世に生み出した空冷四気筒DOHCエンジンは、当時のモーターサイクリストの度肝を抜いた。
スペックはもちろん、ルックスもずば抜けていた。
ストラトキャスター、レスポールの出現と同じくらい完成度が高く、後のオートバイの源流となったといってもいい。
もはや『伝説』となっているZ1誕生の背景は、改めてここで語る必要はないので省かせて頂く。

アメリカ人のハーレー軍団のオジさんが「オレたちはハーレーしか乗らないし、他のバイクは認めない。でも、日本のZは別だ」みたいなことを言ってたくらいだから、相当インパクトがあったに違いない。オジさんたちの排他的な考え方は好きにはなれないが、『ハーレー命』のライダーですら、Zには敬意を表していることは間違いないのだろう。
そんなハーレーダビッドソンが幅を利かせているアメリカで成功をおさめた「メイド・イン・ジャパンのバイク」…すなわちZ1に乗ることで、オレ自身も「常に挑戦」していきたい…簡単に言えば『Zにあやかりたい』と思っていたのだ。

なので、シドニーに着くや否や、購入したのはバイク雑誌(笑)。
入国して以来、毎週のようにバイク雑誌や、個人売買専門新聞を購読していたという…
おかげで、入国一週間足らずでZ1Rのオーナーになっていたのだ。

「この話の流れだったら、Z1を選ぶんじゃないの?」
と、ツッコミを入れたアナタ…鋭い(笑)。
もちろん、当初はZ1を探していたんだけど、ロクなのがなかったり、あっても隣の州とか、現車を確認できるような距離じゃなかったのよ。

そのうえ、当時、中古バイク情報誌でも写真が掲載されているのもあれば、「1973 Z900.22千キロ。車検9月。五千ドル」みたいな一行広告にまとめられているのもあったりで、近所じゃないと話にならなかったのだ。

あとは、Z1はチューブタイヤでしょう?
パンクした時、チューブレスタイヤじゃないと修理が大変なので、キャストホイールの車種を選んでいったわけ。
条件をすると、Mk2以降、J型以降のエンジンを積んだモデル(Gpz1100含む)になるわけ。

ここでエンスーたちからは、第2のツッコミが入るわけです。
ハイ、そうです。
Z1Rはキャストホイールでも「チューブレス」じゃないんですねえ(笑)。
タイヤ交換してる作業を見学してて、中からチューブ出てきてたまげましたから。
「なんでチューブ入ってるの?」って聞いたら
「キミ、何でチューブレスだと思ってたの?」って(笑)。
どんだけ、形から入ってるのオレ?

あとは、カウルつき、というのもポイントが高い。
Zのカウルは、Gpz以外はビキニカウルだけど、一日何百キロも走るんだろうから、カウルがあった方が絶対楽だろうと。
Z1000RやZ1100Rは当時も人気車種で値段が高かったけど、Z1100GPとかZ1Rは、結構安かった。
Z1100GPはインジェクションでトラブルも多いというのも聞いてたから、じゃあ、Z1Rがいいんじゃない?というわけでZ1Rに狙いを絞ったわけ。
※下の写真、赤いZ1R(形式はZ1000D2。シルバーのD1と黒のD3の間に位置する)は見たことがない。

そしたら、たまたまシドニー市内で売りたいってヤツがいて。
3000ドルだから、当時のレートでいうと高く見積もっても30万円弱(笑)。
そんなZ、今だったら絶対怪しくて買えないんだろうけど、買っちゃったのね。
いわゆる「つかまされた」ってヤツね(笑)。

最初に買ったZ1Rには、ホントに苦労させられた。
でも、コイツもオレには苦労させられたと思う。
シドニーの街ん中では、何回も転倒したし(いま考えるとスゴいことだ)、駐禁のキップは取られるし、クライミングスポットで有名な(当時は知らなかった)ブルーマウンテンまでぶっ飛ばしてパンだけ買って帰ってくるとか、キャブOHで500ドル近くかかったりとか…

最後には行きつけだったRedfernカワサキのガンコオヤジから
「この単車で豪州一周なんかに出たら、確実に死ぬぞ。悪いことは言わねえから、最低でもエンジンをOHするか、他の単車に乗り換えな」
とサジを投げられた。

ガンコオヤジが「ほれ、うちには沢山バイクもあるしよ」とか言い出したら「何を商売っ気、出してんだこの野郎」と思ったんだろうけど、そういうことは言わなかったしね。
「オレが知ってる日本人は、みんなスズキの350だのヤマハの600だの、オフ車で旅に出てるぞ。お前ェもそうした方がいい」

すっかり気落ちしてしまったオレは、いつの間にか、DR350だのXT600だの、オフ車の広告ばかり見るようになっていた。
バイクや車の街、パラマッタ(Parramatta)を「Zを下取りに出して、買えるバイクは何だろうな」と、どす黒い空気をまといながら、ブラついたこともあった。

そんなある日、写真つきの広告に1台のZ1Rが掲載された。
純正マフラーがついた、美しいZ1Rだった。

※ちょくちょく世話になっていたKawasakiのショップは、現在閉店。
2015年現在はClose Motorcyclesというショップになっている。

そんな日々を過ごしたパディントン。
短い間だったが、毎日が輝いていたパディントン。
もう二度と来ることもないだろう。
「ありがとう。ちょくちょく連絡するからさ」
ジュン、他の同居人たちと別れの挨拶を済ませると、ヘルメットに髪を押し込んだ。
グローブをはめた両手を軽く動かし、キーを差し込む。

セルを回し、エンジンを暖めてやる。
一方通行の細い路地…エリザベス・ストリートに空冷4発の野太い音が響き渡る。
秋風に乗って、何枚かの乾いた葉が落ちてきた。

再びこの街に帰ってくるのは、何ヶ月先だろうか。
何より、自力でここまで帰ってくることが出来るかどうか。
陳腐な表現だが、期待と不安が胸の中で渦巻く。
同時にパディントンで暮らした日々が頭の中を駆け巡る。
寂しさを振り払うように、クラッチを握り、ギアを叩きこむ。
空冷4発が、2つのマフラーを通して機嫌のいい音を奏でる。

「またな!」
ヘルメットの奥で叫んだ声は、彼らに届いたかどうか。
海の街ボンダイとシティを結ぶ幹線道路、オックスフォードストリートの緩やかな坂を下り、中心部へ出る。
いつもは舌打ちしてすり抜けする渋滞も、今になってみれば愛しささえ感じる。

タウンホール、QVBなどの名所の脇を通り過ぎてから、ハーバーブリッジに乗る。
ここまで来れば、さっきまでのセンチな気持ちは何処へやら。
未だ見ぬ景色への憧れが、ついついアクセルを開けさせる。

そういや、英会話教室で一緒だったお姉さんが、ハーバーブリッジから1ドルだか2ドルコインを放り投げると幸せになれると教わっていた。
独りバイクで旅に出るライダーが、やると絵になるかも…

カッコいい。
絶対やろう。

と、渡航する前から考えていたのだが、ハンドル操作を誤って転倒したら笑い話にもならないのでやめておいた。
交通量の多い橋の上で引っくり返ったら、すごく恥ずかしいし。
それに、追い越し車線を走っているので海まで届きそうにない。

実際走ってみて思ったけど、そんなことしたら怒られるんじゃないのかな。
こっちの警察、何だか日本よりもキビシーみたいだし。
てなわけで、コインを投げたつもりでハーバーブリッジを後にした。

橋を渡ってからは国道1号線を北上。ケアンズを目指して一直線だ。
おおまかな予定では海沿いの1号線を走り、北部の真中まで来たら南下して内陸部に入ってエアーズロックを見たらもう一度北上して海岸線を走る。そうすると、シドニーまで戻ってくることになる。

こいつは『ハート型』と呼ばれ、極めてオーソドックスなルート。
砂漠越えやらダートロードを突っ走るライダーは『8の字(∞)型』と呼ばれるルートを選び、凄いヤツになると、両方のルートを走破するらしい。
下の写真が、実際に使用した地図。距離だの日付だのが書き込まれており、この地図がツーリング・プランを兼ねている。

『ハート型』のルートは地図で計算すると1万6000km。一日に300㎞走っても50日以上かかる。
もちろんこいつは計算上のことなので、実際はもっと増えるはず。聞くところによると、普通に走っても軽く2万kmは突破するらしい。
2万㎞っていったら、地球半周?
あまりにもスケールが大きいので、ぜんぜんピンとこない。

今日の予定はというと、シドニーから北に100kmそこそこ離れた街、ニューキャッスルまで走るだけ。あんだけ盛り上がって出発したのに…
たった数時間で旅の初日は終わってしまいました(笑)。

というのも、ニューキャッスルの近くにオレが所属するバイクチーム『Zオーナーズクラブ』NSW支部会長、ビンキィ・ロミンスキィが住んでいるのだ。彼にはマシンの修理やら購入について散々世話になっている。
彼の助けがなければ、旅に出るのはもう少し先になっていたかも知れないし、もしかするとZ1Rで旅が出来たかどうかすら怪しい。

そういえば、ビンキィは「STONE(邦題 マッドストーン)」という映画に出演していたらしい。
オーストラリアのZ乗りで、いわゆるストリート系のライダーは大なり小なり、STONEの影響を受けているようで、マストアイテムというか、STONEを観ずしてZを語るなかれ、的な風潮があるらしい。

前に遊びに行った時、ビンキィの解説付きで観たのだが、いまいち伝わるものがなかった。
ちなみに、マッドストーンというタイトルにしたのも、同じオーストラリア映画で、これは世界中で大ヒットしたマッドマックスの人気に便乗したものであるからして、映画の出来は推して知るべきだろう。

マッドストーン
なんという偶然でしょう。2015年にBlu-rayで再販(笑)!

今回、何故、ビンキィの家に泊まったかというと、これまでの礼もしたかったし、いろいろな情報を教わっておきたかったのだ。
メシを食いながらビンキィは地図を広げ、あれこれ説明してくれる。

「この灰色の部分がアボリジニの領域だ。ここに入ったら連中のルールに従えよ」
「沿岸の街は安全だが、内陸の田舎町には気の荒いハーレー乗りがいる。こないだも、セガレがバーで乱闘を起こしてな…セガレはキックボクシングの達人だが、お前は、細いからな…日本人の癖にいきがった格好をしてると、すぐにコレだ」
ビンキィの親指がノドを掻ききるゼスチャーをしてみせる。

気に入らない余所者には死の制裁が待っているらしい。
拳銃で胸に風穴を開けらるのか、ナタのようなナイフでぶった切られるのか。
しかも周りはオーストラリア人だから、辞世の句を詠んでも「何か言ってるぜ、この日本人」って海外ドラマの俳優よろしくオーバーアクションで首をすくめられておしまい。

こっちへ来て半年、少しは身体を鍛えておけばよかった…
そりゃあもうムリだから、最後の言葉くらい英語で言えるようにしといた方がいいかもしれない…

半分、本気で悩んでいたら、ビンキィの奥さんが「あなた、いい加減にしなさいね」と突っ込む。
出たよ。またかよ。
このオヤジには、いつもリアルなフカシで騙されるのだ。

ひと通り持ちネタの冗談を言い尽くして満足したのか、ビンキィは真面目な口調で語り出した。
「東海岸を走っているうちは、水や食料には苦労しないだろうが、内陸部や西海岸はそうもいかないこともある。特に水と燃料だけは、必ず余分に持って行け。いつだったか、砂漠を横切ろうとした日本人が遭難して大変な目にあったんだ」
だいぶ後になってから知ったことだが、この出来事は日本人ライダーの恥部として、語り草になっていたらしい。
ビンキィがちゃんとしたアドバイスをくれ始めたのは、だいぶ遅くになってからだったので、正直眠くて半分も頭に入らなかった(笑)。

【移動距離】
Sydney – Lake Macqualie 130km

※今回の改訂にあたり、Google map 上での移動距離を掲載しました。
もちろん、実際は何処かに立ち寄ったり、滞在先近辺での移動もあるため、実際に走った距離とはズレる場合があります。目安として、お考えください。

■1997年 5月16日 Port Macquarie のっけから雨… 

フラットを出たのは昨日だが、本格的な旅の始まりは今日から。
記念すべき最初の日は、残念ながら曇天模様。

雨が降らないうちに、急いでビンキィ宅を後にする。
しかし、山間の道を走っていくうちに小雨がパラつき始める。
雨と共に気温も低くなり、ハンドルを握った手が冷たく硬直してゆく。

雨脚が強くなるまで、時間はかからなかった。
シールドが雨に曇って視界が遮られる。
ジャンジャンバリバリ走ってやろうと思ったが、強烈な雨にギブアップ。
途中でやり過ごそうと思ったが、雨足は一向に弱くならない。

通過点のTareeという街も見たかったが、キャンセル。
しょっぱなから無理をしても仕方ないので、ポートマックォーリーという港町を今日の宿とする。
直線距離にして200kmだから、たいしたことはない。
もちろん、気力も体力も有り余っていたが、荷物が濡れるのは具合が悪い。
おまけに1号線、あちこちで道路工事を行っており、しょっちゅう停まっているので思うように進めない。

宿はもちろんユースホステル。相部屋なら一泊15ドル前後が相場だ。
日本のユースなんて3000円以上はとるよね。
ライダーハウスなんてあんなに安いのに。
観光案内所で場所を教えてもらうついでに、予約を入れてもらう。
知らない街に着いたら「観光案内所」「宿探し」というのが、お決まりの行動になった。
宿についた頃にはますます雨は勢いを増し、宿の薄っぺらい屋根がエライ音を立てていた。

この夜、早速自炊。
今夜は近所のスーパーで買ったパンとキャンベルの缶詰スープに野菜を入れて食べる。
肉体労働並に身体を使う日々が続くため、出来るだけ栄養をとり、肉だけじゃなく野菜もキッチリとることにする。
ニンニク、ジャガイモ、タマネギは常備。
こいつらは腐りにくいので、これからも重宝するだろう。

この時期、あまり日本人の旅行者はいないのだろうか。
それとも、この街で羽を休めることはないのか、ユースの宿泊客はほとんどが国内の旅行者のようだった。

【移動距離】
Lake Macqualie – Port Macqualie 274km

■ 1997年 5月17日  Coffs Harbour ずぶ濡れ独り旅

雨は止んでいたが、いつ降り出してもおかしくない空模様。
走るか留まるかで散々悩んだが、とりあえず10時くらいに荷物をまとめる。

2万キロを越える道のりだってのに、一日100キロずつではお話にならない(本当はそんなことないのだが、午前中しか走っていないので、気持ち的にはそれほど走っていないように感じていた)。
この街も本当なら綺麗なビーチとか、バナナ園など楽しそうなところがあるのに…この雨じゃ何もする気になれない。

宿のお姉ちゃんが「ねえ、もう一日様子を見たら?」と空を指差す。
気づかなかったが、この子、よくよく見たら御厨さと美の「ルサルカは還らない」に登場するマレッタ・クレージュみたいじゃないですか。
もしかしたら何かいいことあるかもしれない。
今夜、二人っきりで浜辺を散歩してみたりするかもしれない。

「アタシも日本に行きたいなあ」
「そんじゃあ、オレと一緒においでよ、ハニー」
「本当?うれしい!」

…と、ここまで想像するのに0・2秒。
ああ、いかんいかん。ついいつもの癖が。
くだらん妄想を跳ね除けて、いっちょカッコいいことを言ってやる。
「日本の単車乗りってのぁ、雨だろうが嵐だろうが関係ねえのさ」

このねえちゃん、「素敵」と目をウルウルさせてくれると思ったら、感激したのは彼女のじいさんだった。
「あっぱれ、日本の若者よ」とは言わなかったが「旅人は、かくあるべし」とばかりに、マシンに跨ったオレをカメラに収めてくれた。
何でも、気に入った客の写真をロビーの壁に貼っておくらしい。
お世辞でもオレのことを気に入ってくれたってのが、嬉しい。
今でも、この宿にはオレの写真が飾ってあるんだろうか…

荷物をキャリアにくくりつけ、革ジャンに袖を通した。
出発だ。
じいさんとねえちゃんが手を振る。

オレはちょっと勢いよくアクセルを開けつつも
「路面が濡れてて、ズルっといったらおっかないな」
と呟いてマシンを走らせた。
雨の中、カワイイ女の子に見送られて走るオレって、ちょっとカッコいいんじゃない?ポジティブシンキング。どこまでいっても幸せものである。

なんて、カッコつけてはみたけど、やはりダメ。
国道に出た瞬間、すんげえ大雨。警報レベルじゃないの?
こんなことなら、無理せずYHAでマレッタちゃん(仮名)と遊んでいればよかった。戻るのも情けないので、とりあえず次の街を目指す。
しかし、コールマン製のポンチョは、時速100kmを超えるか超えないかで、引きちぎられてしまった。結局また100kmそこそこ走っただけで、コフスハーバーで足止めを食らう。

本当なら美しい海岸が見渡せる街なのだが、コンクリートのような色の空と海では写真を撮る気にもなれない。
宿でゴロゴロしながら時間を潰すしかなかった。

バルコニーで外を眺めていたら、隣の部屋の兄ちゃんが何やら怪しげな煙草を勧めてきた。もちろん、よい子のオレは丁重にお断りした。
もし頂戴したとしても、ここじゃ書けないでしょ(笑)。
いや、ホントにもらってないです。

その代わり、一曲弾いてやろうと兄ちゃんのギターを借りる…
が、左手用(笑)。
メチャクチャなメロディが雨音と共に怪しげな曲となって響き渡る。
兄ちゃんは目を閉じてうっとりとした表情で「いいね、いいねえ」と唸っていた。脳内を旅するには、ちょうどいい塩梅だったんだろう(笑)。

それにしても、やることなすこと空回り。
こいつがオレが夢見たオーストラリアの旅なのか?
青い海も地平線まで続く弾丸道路もありゃしない。
降りしきる雨に、一層心がブルーになった。
ちなみに、今日の出費は以下の通り(価格は全てオーストラリアドル。実質レート100円くらい)。

ゲータレード:1.59
スープ:1.44
ヨーグルト:3.96
スープ:1.44
牛乳:0.75
バナナ:3.14
ホットケーキ:1.40
宿泊費:14.00
ガソリン:9.00

当時の日記によれば、100kmを6リットルで走れるらしく、リッター16半ばくらいか。負圧キャブ、おそるべし。
当初はこんな風に「お小遣い帳」をつけていたのですが、すぐに断念しました(笑)。

【移動距離】
Port Macqualie – Coffs Harbour 159km

NSW 総移動距離 563km
Sydney – Lake Macqualie 130km
Lake Macqualie – Port Macqualie 274km
Port Macqualie – Coffs Harbour 159km

NSW QLD Part1 QLD Part 2 NT WA Part1 Finland  France Italy
Canada&USA WA Part 2  SA  VIC  ACT  Appendix  Appendix2015

【オマケ】


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