■1997年 8月16日 New York
12時間以上を費やして、USA、アメリカに到着。
米国だっていっても、別にお米の国じゃァありません(失点1)。
久しぶりの長いフライトで、心身ともにやっつけられてしまいました。
NY、ニューヨーク。
世界のニューヨーク。
I love New York!
ものすごく感動しております。
ところが、だ!
NYでも夏休みだというので宿がない!
空港の観光案内所もダメ。
ヤバイ……ユースもバックパッカーも全滅。
どうするよ、もう夕方だぜ。
空港の公衆電話から電話帳を片手に電話しまくること10数軒、ようやく53$のホテルを押さえる。
危なかった…NYで野宿なんて危険すぎるでしょう!
いまでこそ、インターネットが普及しているので、ナタリー・エモンズちゃんにあやかってトリバゴでホテルを予約もできようが…
この時代は現地で予約するか、旅行代理店に前もってお願いするしかなかったのだ。
が、着いてみたらひどいの何のって。
殺風景な部屋にはベッドと汚い洗面台だけ。
風呂はねェし、エアコンなんてあるはずもない。
アメリカの映画で薄汚い中年のオッサン…しかもアウトローが追っ手から逃れて隠れるような、そんなホテルだ。
日本のラブホテルなんて同じ値段でもっと豪華だぜ!
え?らぶほてるについて、そんなに詳しいのかって?
全然詳しくないッス。映画とかマンガとかで…そういうもんだと…
「ラブ」と縁遠いオレにそーいうことは聞かないでくれよな、ブラザー。
おまけに雨上がりで、蒸し風呂のような暑さ。
何をしていても汗をかく。
せっかく英語圏の国に来たのに、先が思いやられる……
本当はあちこちウロつこうと思ったが、疲れたのとさすがに夜にウロつくのは危険だろう。
いや、危険じゃないとこかもしれないけど、どこが危険でどこが安全か分からないうちは辞めた方が無難だ。
今日のところは、ホテルの隣にあるケンタッキーでメシを調達するだけに留める。
まあ、でもケンタッキーのミールセットについてきたドリンク、噂にたがわぬ大きさ。
牛乳パックのように、三角屋根になっている。
これじゃあ、アメリカ人ってのは、太るわけだ(笑)。
■1997年 8月17日 New York
朝も早よから宿探し。
まずは、貧乏旅行者の命綱とも呼べるユースホステルへ。
ガイドブックを片手に近くまで行くが、なかなか見つからない。
「たしかこの辺のはず…」と周囲を見渡すと、旅行者風の若者たちが列をつくって並んでいる。列の先頭を追ってみたら、ユースホステルに辿り着いた。
「これ、もしやキャンセル待ちで並んでる?」
今度は最後尾を追ってみたが、最後まで歩くのは諦めた。
何しろ、建物を取り囲むようにして並んでいるんだから…
こんな光景、初めて見た。
「外国人も並ぶんだなあ」と感心している場合ではない。
このままじゃ、オレも宿なしだ。
さすがのオレもステゴロでNYで野宿する勇気はない。
キャンセル待ちよりはマシかと、昨日はいっぱいだったハーレムのバックパッカーに電話してみると、何とOKの返事が!
早速地下鉄に乗ってハーレムへ向かう。
ハーレムといえば黒人街。
ガイドブックにも「決して安全とは言えない」と注意書きが。
電話口では「地下鉄を降りてすぐの場所」と言っていたので大丈夫だろう。
ユースホステルのあったセントラル・パークからハーレムまでは30分もかからなかったと思うが、降りた場所は同じ街とは思えないほど雰囲気が違う。
違うというより、危険な雰囲気がプンプン臭ってくる。
「地下鉄を降りたら、目の前にって…?」
この時ばかりは、さすがのオレも相当ビビリ入っていた。
周囲を見渡すと、柄の悪そうな黒人がいっぱい。
おそるおそる宿の名前を聞いても「I don’t know」の返事ばかり。
あ、一応コワいので、声をかけるのは全部お婆ちゃん(笑)。
そうこうしているうちに「ヘイ、ブラザー。タクシーはどうだい?」って車乗った兄ちゃんが追っかけてくる。
「うるせー白タクは間に合ってるんだよ!」と中指を立てるわけにもいかず、ここは無視。
心の中では、悪霊退散!悪霊退散!と繰り返すのみ(笑)。
プライドよりも大事なものなんて山ほどございますので、アタクシ。
どうやら、駅を間違えたらしい。
NYは方眼紙のように区画整理されていて、南北に走る道路がアベニュー、東西がストリートという名前がついている(ストリートは、イーストとウェストの区別もある)。
駅もそれに準じてるから、たとえば「125ストリート駅」も複数ある。
つまり、ズレた路線の駅で降りたから、迷ってしまったのだ。
途中で気付いたオレは、地図とにらめっこしながら、東へと向かった。
多分、近くまで来たはずだ、と辺りを見回したら、こっちに向かって叫んでいるオッサンがいた。
「おい、お前!こっちだ!早く来るんだあああ!!」と必死の形相で叫んでいるオッサンこそ、ハーレムのバックパッカーの主だった。
もはや、激しい戦火で逃げ遅れた新兵を呼ぶ上官のノリだ。
オッサンの緊迫した表情につられて、オレも走り出した。
まさに飛び込むようにして玄関に入ったら
「何をやってるんだ、バカ野郎」
「お前、オレが教えた地下鉄に乗らなかったんだな!?」
と、オッサンからメチャメチャ怒られた。
客なのに(笑)。
後から聞いたら、相当ヤバいブロックを歩いてきたみたい。
とりあえず、無事に着いたのでOKでしょう。
昼過ぎから、街を探検するも日曜日なので閉まってる店が多くて、さっさと引き上げてくる。NYも日曜は休みか……たるんでるな。
■1997年 8月18日 New York
バックパッカーで一緒になった日本人旅行者の金子君、平賀君の二人と街歩き。
買い物目当てでNYに来たらしく、あれこれ事前に情報を集めてた。
一応、3人の共通点としては『クロムハーツ』。
言わずと知れたシルバーアイテムのブランドなんだけど、NYの人誰も知らない(笑)。
なんだよ、アメリカ人なら誰もが知ってるんじゃないのか?
ありとあらゆる手段を使って、それこそクレジットカード会社の情報網でもって調べても見つからない。
「うーん、聞いたことあったかな」とか、そんなのばっかで。
無駄とは思ったが、ジュエリーショップを訪ねまくったら、何と何軒かの店で情報をゲットすることが出来た。
教わった住所へ言ってみると、何だか周囲に店もないような路地である。
みんな、ただのアパートとか家ばかり。
おかしいと思って、よーく見ると、窓の奥に見覚えのある十字架が!
これがクロムハーツのブティックだったのだ。
な、何て地味な……看板すらないのだから…
でも店員はオレらを歓迎してくれて、お茶まで御馳走になる。
でもね、やっぱしクロムハーツは高い!
誰が買うんだ、こりゃ…という値段。
しかし、結局200$の指輪とロンTを買ってしまう(笑)。
■1997年8月19日 New York
クロムハーツをゲットしたオレは、ラングリッツ・レザーの革ジャンを探しにゆく。
ひとつひとつ手作りのこの革ジャン、日本で購入すると30万円はするらしい。
Yなら、いくらか安いと思ってあっちこっち捜し回るが、何処にも売ってない……どころか、例によって誰も知らない。
いまでこそ、ラングリッツはオレゴン、ポートランドでしょ、という感じだけど、この当時は、本当に誰も知らなかった。いや、一部のコアなモーターサイクリストは知っていたかもしれない。こういう話をすると若い連中から「90年代半ばだったらインターネットがあったでしょ?」と言われるんだけど、確かに高速回線ではないにせよ物理的なインフラは電話線という形で世界中に走っていたかもしれないが、Yahoo!にしても、当時はディレクトリ表示だったから、 現代のようにサクサクと検索できる時代ではなかったのだ。
おまけにWebサイトをもっている会社だって少なかったし。
探しまわっているうちに、アホなショップからは「あーあれは名前が変わってバンソンになったんだよ」なんてことを言われる。
馬鹿にするにも程がある!
ガイドブックにデカデカと載ってるお店がそういうこと言うのって、どうなんだろうね。
仕方なく…というわけじゃないけど、国連へ行く。
国連本部ビルは、観光客がいっぱいで警備も厳重。
日本語ツアーに参加して、内部を拝見。教科書やTVでしか見たことのない光景に感心。
帰りにバックパッカーの向かいにある中華料理のテイクアウト(ほか弁みたいなもんと思ってくれ)で、黒人の若者たちに絡まれる。
どいつもこいつも、ヤバそうな面構え。
どうする?オレ。
つーか、何でこうなったのかというと…
ここの中華料理店の親父、いつもこの辺の若造にからかわれてるのね。
日本でも、心ない奴が在日朝鮮人に因縁つけるのと同じニュアンスだと思うんだけど。
そしたら、連中はオレの方にも矛先を向けてきやがったのよ。
オレはこう見えて、何処の国の人に対しても丁寧な言葉で注文する。
客だからといって偉そうに振舞うことはない。
そんなオレを気に入ってくれたのかどうかは不明だが、店の親父が「持ってけ」とジュースをくれたり、盛りをよくしてくれたりとサービスしてくれたのが、彼らにとっては気に入らなかったのだろう。
「お前ェ、中国人かァ?」「よう、中国人」とか言って取り囲んでくれちゃって。
心の中では「ウッワー無茶苦茶怖えェ!」とビビりそうになったが、「ああァ?何でそんなこと訊くんだ?」と一人に睨みをきかせ、もう片方には「お前ェ、何でそんなことが知りてェんだ?」とすごんでやる。
ケンカなんてハッタリ第一。
ハッタリさえ巧ければ、一生「誰にも負けなし」でイケるほど重要である。
横から見たら腰が引けてたかもしれないが「オラオラ、どーなんだよ」と詰め寄ってやる。
途端にリーダー格の兄ちゃんが「だって…そう思ったから」とショボくれてトーンダウン。
「おめえら、何歳なんだ?」と聞いたら、みんな16とかそんな年齢!
なんだよ、もう…高校生相手にビビっちゃったじゃないのよ。
ガタイはでかくても、一緒に連れてた女の子が実はスタイル抜群でも、所詮は10代のガキ。20代半ばになってまで、住所不定無職で世界中をブラブラしているオレに勝てるはずがない(笑)。
お陰様で、次の日会ったらニコニコした顔で「おはよう、ミスターロックンローラー」「今日はどこに遊びに行くのさ?」だって(笑)。
でも銃持ってなくてよかったよ…マジで。
ちなみに、このバックパッカーには沢山の若者たちがあふれていた。
ボロボロのバンでカナダからやってきた連中がいて、一緒にドンチャン騒ぎしたり、突然「髪を切ってくれ」とか言われたり。
■1997年 8月20日 New York
最後のNY。
が、雨。結局、ラングリッツは手に入らず。
やっぱしオレゴンに行かないとダメなんだろうか。
革ジャンが買えないなら、他のモノを買うぜ!と、ブレスレットを購入。
ガイコツの浮き彫りが入ったゴツイ奴。あと、オシッコしたくて入った店で501を買う。
40$で買えるんだから、安いよね。
質素な生活で無駄な肉の落ちたオレのジャストサイズ、28インチだった……
ちなみに、日本ってどのブランドもいろいろ種類があるでしょ?でも、NYって定番501と太いジーンズしか見なかった。
これは他のブランドでも同じことで、案外、日本人が考えるほどの拘りはないのかもしれない。
ファッションアイテムとして定着しているものの、日本人ほど「カッコいい」とは思っていないのかもしれないし、あるいは、別のブランドが造っている商品に価値を見出しているのかもしれない。個人的には、Leeのブーツカットが一番しっくりくるので、未だにジーンズはLeeばっかり。
ちなみに、こないだ「ジーンズ」って言ったら若い女の子たちに「今時ジーンズってヤバいですよ」って笑われた。
じゃあ、何て言うのさ?と聞いたら「デニム」ですって…バ、バカモノ!デニムとは記事の素材名であって、決してデニムを裁断、縫製して造ったズボンのことではない!と言い返したら「ズボンだって~」と、さらに笑われてしまうはめに。
華やかではあるけど、さびれたダークな部分もたくさん溢れる街、NY。
着飾ってリムジンでショッピングを楽しむ人もいれば、電車の中で英語のテキストを真剣な顔で読みふける中年男もいた。
そういう街なんだな、ここは。
■1997年 8月21日 New York ~ Toronto
朝8時、通勤ラッシュに混じってエアポートへ。
行き先はカナダ。
ヨーロッパ・北米旅行最後の目的地である。
カナダには従姉妹夫妻が住んでいるので、今までの旅とは違って緊張感なし。
もう、トラブルともサヨナラ…と思いきや、何故か別の飛行機に乗せられてしまう。
もう、トラブルがお約束になってる…
予定ではラガーディア空港、フィラデルフィア、トロント着のはずが、ピッツバーグ経由となってしまったのだ。
ていうか、そういうこと早めに言えよな!
オレが訊くまで教えねェんだから。
おかげでトロント到着は1時間遅れ。
空港まで迎えに来てくれてた従姉妹も焦ってたらしい。
今だとスマホで「ごめん。欠航で振替便になりました。到着遅れます」でOKでしょ?
連絡手段がない、って今なら考えられないよね。
■1997年 8月22日 Toronto
まずは街を探検に繰り出す(どうでもいいけど『たんけん』て探険て書くもんだと思ってたら、こう変換された。どっちも正解)。
トロントは緑が多くて、気候も穏やか。
同じ夏でも、ここの夏はカラっとしている。
適当にブラついてみるが、コレといった収穫はなし。
でも、日本の都会と違って、何処か余裕があるというか、窮屈な感じがしない。
その夜、従姉妹夫妻と合流してイタリア料理を御馳走になる。
そこで従姉妹の知り合いの世良さん御一家と同席。
息子のシンヤ君はオレと同い年だが、物心がつくかつかないかのうちに日本を離れたので、日本語は苦手。
ホントは喋れるし、理解出来るんだけど英語の方が楽らしい。
シンヤ君はお母さんの仕事を手伝って、ジュエリーデザイナーをやってる。
しばしシルバーアクセサリーの話題に花が咲く。
最初はシャイなヤツだと思ったけど、喋ってみるとなかなかいい男だった。
■1997年 8月23日 Toronto
従姉妹の車に乗っけられて、ナイアガラの滝を観に行く。
予備知識のなかったオレは、カカドゥのジム・ジム・フォール(オーストラリアのカカドゥ国立公園内の有名な滝。乾期は枯れている)みたいに奥地にあるのかと思ったら、ホテルハイアット、カジノ、カナダ側とアメリカ側にはハードロックカフェ……
これでもかと言わんばかりのリゾート地!ちょっと拍子抜けしました。
その後、アメリカ側に渡って、アウトレットショッピング。
9月からの新学期に合わせ、学用品を中心に大セール。
何故かリーバイス501も学用品扱い、50ドル以下で売ってた気がする。
次の日、シンヤ君と一緒に街へ遊びに行く。
ジュエリーショップというかシルバーアクセサリーのお店を見たり、おもちゃ屋に入ってみたり…ちなみに、シンヤ君は日本のアニメが好き。
「コレは誰の作品?」なんてしきりに質問してくる。
カナダですっかり緊張感が消えたのか、風邪を引いてしまう。
喉が痛くなったり、それが治ると、今度は鼻水が…最悪。
この後カナダを出てもバイクの旅が待っているので、とりあえず寝転んで過ごす。
■1997年 8月28日 Toronto
いよいよヨーロッパ・北米の旅も終了。
しかし、ここでとんでもない事態が!何とワーキングホリデービザ消失!
チェックインで気づいたというか、気づかされたのだが、オレのビザ発給は1996年の7月23日。
その後1年の間にオーストラリアに渡り、到着したその日から1年間が滞在許可期間となる。
オレの場合は11月15日まで有効なのに、空港のスタッフは失効してると言い張る。
何だかんだもめまくったあげく、空港でその場発給の観光ビザをもらう。
何だかヤバイ雰囲気だ…大丈夫か?
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