令和6年能登半島地震に今できること、これからできそうなこと

雑記帳

まずは、令和6年能登半島地震で被災されたすべての方々にお見舞い申し上げます。

ここ宮城県からは遠く離れた石川県だが、縁のない場所ではなかった。
10数年前、まだSNSが普及していなかった頃、遠く離れたZ乗りと出会うきっかけは、それぞれが持つブログだったり、それ以前は個人が管理するホームページだった。

輪島市にある旅館「城兼」のオーナーとの出会ったのも、いまは無きヤフーブログがきっかけだった。
お互い不人気車種の2型Z1Rを所有していたことから交流が始まり、しかし宮城県と石川県では簡単に「会おうよ!」という距離でもなく、お互い仕事があるので時間も取れず、ネット上のお付き合いが10数年以上続いた。

SNSも普及して随分経つし、コロナ禍の副産物ともいえる、オンラインミーティング用のプラットフォームも随分と使いやすくなったから、やろうと思えばオンラインでお会いすることも可能だった。

だが、キラキラと眩い20代の若者ならともかく、もう初老とも言ってよい年代の男たちが画面越しにバイク談義をするのは抵抗がある。
大先輩はどうか分からないが、少なくとも自分は苦手だった。

それに、これは自分の事情だが、数年前に高校時代からの仲間が急逝してしまった。
普段会おうと思えば、いつでも会えるから、と連絡をおろそかにしたタイミングで友人は亡くなってしまったのだ。
それがきっかけで「会いたい人にはすぐにでも会っておくべきだ」というマインドになり、さらにはコロナも5類になったことで、2023年9月に北陸を目指したのだった。

細かいことは、ツーリングレポートを読んで頂くとして、大先輩はヘトヘトになって到着した自分とZ1Rを暖かく迎え入れてくれた。
10数年以上の交流なのに初顔合わせには、ちょっとこそばゆいというか、ギクシャクした感じになってしまった。
緊張気味の自分をおもんばかるように気さくに接してくれた大先輩のおかげで、徐々に会話も進み、朝も早いというのに夜更けまでバイク談義に付き合ってくれた。

3日で1700kmを超える旅だったが、本当に行ってよかった。
さすがにしょっちゅう行ける距離ではないが、家族や友人たちを誘ってもう一度行きたいと思わせるような素敵な場所だった。

しかし、よりにもよって2024年の元旦、こういうことになってしまった。
これを書いているのは、1週間が過ぎた辺りだが、日を追うごとに被害状況が浮き彫りになっていく。

土砂に埋もれてしまった旅館城兼さん

出来ることなら、いますぐにでも、駆けつけて大先輩に支援物資や義援金を手渡したい。
でも、いまこのタイミングで被災地へ入っても、役に立たないどころか、救助活動や復旧工事に当たっている方々の迷惑になるだけである。
いま我々に出来ることは、自治体が設置する口座などに寄付金を送る。

道路、水道、電気などのインフラがある程度復旧して、工事車両以外にも安全に通行できるようになり、かつ被災地からボランティアを要請できる状態になると、電話もつながるだろうし、個人間の荷物のやり取りも出来るようになる。

被災者たちも避難所から自宅に戻る、仮設住宅に住む、店舗などが営業を再開するなど、経済活動が正常化し始めたら、制限はあるかもしれないが、外部の人間が足を踏み入れることが出来るかもしれない。

東日本大震災の時でも、よその人たちに「どうぞ今の我々を見に来て下さい」と言えるまで、ずいぶんと時間がかかったので、被害が大きかった能登半島も同様だろう。

その日が一日でも早く訪れるよう、いま、出来ることをやっていこうと思う。

令和6年能登半島地震 緊急支援募金(Yahoo!基金)のサイトより